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金光教常盤台教会

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2008年07月06日(Sun)

金光大神祭・水子慰霊祭
[おひろまえ]

午前10時より、若先生ご祭主のもと、楽人3名奉仕で、金光大神祭と水子慰霊祭が仕えられた。ご霊前では、水子の願主たちが玉串を奉奠した。
祭典後、親先生のご教話をいただいた。

Posted by 教会長(三宅美智雄) at 12時55分   パーマリンク   コメント ( 0 )

2008年07月05日(Sat)

草稿 私の金光教祖伝
[いのちの言葉]

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日本橋教会から「草稿 私の金光教祖伝」が出版された。現教会長・畑淳先生は、ご先代教会長(お父上)・畑先生のご執筆の未完の草稿「私の金光教祖伝」をまとめられて、一冊の本として出版されました。

畑先生は、私の学院時代の恩師であられ、私が東京へ道開きをさえていただいた当初から、何かにつけてご教導をいただいてきました。3年前にお国替え(平成17年9月5日)されるまで、日本橋教会のお広前で「金光教教典」をもとに勉強会を開いてくださり、最晩年までご指導をいただいてきました。

この「私の金光教祖伝」は、昭和58年から61年まで月刊誌「金光青年」に連載されていたもので、今年首都圏布教120年というお年柄に当たって、ご子息(現・日本橋教会長)が自費出版されたのです。

畑先生のお人柄が100%出ているこの本を拝受して「渇者が水を与えられたごとく、私は、その日に完読させていただきました。拝読していると、目の前に先生がいらっしゃるような感じで、つい引き込まれるように読ませてもらいました。

むろん、その後、一回また一回と繰り返して拝読いたしております。読めば読むほど、畑先生の世界にどっぷりと浸かってしまいます。あたかも、教祖さまを目の当たりにされていたかのような、抒情詩のような教祖伝であり、先生の文学的素養が筆先に感じさせられます。

教会図書にも備え付けますから、ぜひ一読をされるようにお勧めいたします。

Posted by 教会長(三宅美智雄) at 15時46分   パーマリンク   コメント ( 0 )

2008年07月04日(Fri)

話をして助かる・聴いて助かる
[いのちの言葉]

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金光大神は「金光大神の道は祈念祈祷で助かるのではない。話で助かるのである。」と教えられています。そのほか、こんなことも仰せられています。「ここへ参っても、神の言うとおりにする者は少ない。みな、帰ってから自分のよいようにするので、おかげはない。神の言うことは道に落としてしまい、自分勝手にして、神を恨む者もある。神の一言は千両の金にもかえられない。ありがたく受けて帰れば、舟にも車にも積めないほどの神徳がいただける。心の内を改めることが第一である。」「信心は話を聞くだけでは十分ではない。わが心からも練り出すがよい。」とも教えられています。

こうして、毎朝お話をしていますが、だんだん「話すことの難しさ」を、日々新たに感じさせられています。しかし、先日も、ある方が「この頃、親先生のお話が難しい」と言われまして、ハッと気づきました。

何も「話すほうだけが難しい」のではなく、「聞くほうも難しい」のだということを思い、教祖さまの「話で助かるのである」というみ教えの重さを知りました。

話をさせていただく私が「いのりがことばになっているか」ということと、聞くほうが「いのりの耳で聞いているか」が問題になりました。お広前での話は「神さまのお声を聴いて、それをことばにして、みんなに伝える」ので、もし、いのりが消えていたら、その話は「話をさせてもらったものが助かる話」にはならない。

私が「難しい」と申すのは、ここのところなのです。「いのりがことばになっているか」というところなのです。そこで、お広前で話すとき、話し方と聞き方がどうあればいいのかということを考えてください。

何も特別の仕方があるのではないが、話す者も聞く者も、双方が「工夫するべき」と思います。話す側には「どうぞ、神さまのいのりを伝えさせていただきたい」という願いをもって、話す工夫がいります。声の調子、話すときの顔、聞いている人のことを祈りながら話すことが大切です。

また、聞く側も、耳で聞くと同時に心から聞くことが大事です。聞く姿勢、求める心、「このお話を聞いて、助けていただきたい」という聞き方の工夫がいります。私は「話す方」ですから、聞いている皆さんのことがよく見えます。「ああ、この人聞いていないな」ということが100%分かります。

私は、まだ修行が足りないのか、「聞いていないな」と分かると、スーと話が消えてしまうのです。時計を見たりされると、それだけでこころが乱れるのです。だから、後ろのほうへ座って、人の影に座るような人は、もう最初から「聞く気」がないと思います。少しでも、前のほうに座って、一言も聞き漏らさないという姿勢でないと「聞いて助かる」とは言えません。

このごろは椅子席ですから、足の痛いのはすくないですが、やはり、聞く姿勢が狂ってくると、話が耳に入りません。座っている人でも、「あぐら」をかいて、下を向いているような人にはお話が届きません。

理想的に申せば、「話をして助かる」話し方、「聴いて助かる」聴き方ということになりますね。

Posted by 教会長(三宅美智雄) at 15時38分   パーマリンク   コメント ( 0 )

2008年07月03日(Thu)

泣く泣く辛抱しいしい
[いのちの言葉]

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三代金光さま (古希のお祝い)

天地の事は人の力に及びませんでなあ。神信心には何事も辛抱する事が一番でございます。
教祖様が欲を放いて、神様のお取次をお受けなされ、四神様がお跡を十年、夜に日に欲を放れてお座りなされ、早ようお国替なされてなあ。それから何も知らぬ私が、座りさえすれば楽じゃ言うて、座らして貰いました、初の内は辛うて辛うてよう泣きましたがなあ。親様の教を守らして貰うて、泣く泣く辛抱しいしいに座っとりましたら、ほしいものも、考える事も、いつの間にか無くなりましてなあ。難有うて難有うてならぬようになり、なんぼう御礼を申しても、足りませんのじゃ。御礼の足りませぬお詫びばかりいて居りますが、勿体ない事であります
。』(「日々が新」より)

これは、昭和11年(1936)8月6日、三代教主・金光摂胤君(こんこうせつたねのきみ)のお言葉として「日々が新」という本に残されています。

教祖さま・二代金光四神さまのお跡を、14歳の金光摂胤さまが70年間にわたって御取次をしてくださり、いわば「中興の祖」と申し上げても過言ではないと思います。私は、常盤台へ「布教願」を出させていただいたのは、ちょうど三代金光さまのお国替え寸前でありました。

その三代金光さまのお言葉が、このように記録されています。一字一字を、よく味わって拝読させていただきたいと思います。

最初の「天地の事は人の力に及びませんでなあ」というお言葉には千金の重みを感じます。お互いは、つい「自分でやれる」と考えて、「わしが、わしが」という「我」の生き方になって、難儀に苦しむことになります。

三代さまは「天地の事は人の力に及びませんでなあ」と、人生の基本となるところをちゃんとおさえておられるところをしっかりと分からねばなりません。

「何も知らぬ私が、座りさえすれば楽じゃ言うて、座らしてもらいました」とおっしゃっています。俗な歌に「ウグイスや、楽になりたけりゃ、下手に鳴け」とありますが、ここで三代さまがおっしゃっておられる「楽」とは、どういうことでしょうか。お若いころのことをよく知っているお方が、こんなことを申しておられました。

お庭で仲間が遊んでいたら、お結界の後ろの障子を少し開けて、三代さまが覗いておられた。それを見つけた仲間が「あっ!金光さま!」と呼びかけたら、ぴしゃりと障子を閉めてしまわれた‥急いでお広前にあがっていき、お結界を見たところ、お若い三代さまが泣いておられたというのです。

「初めの内は辛うて辛うて、よう泣きました」と、正直に告白されています。けっして「楽」じゃなかったということです。しかし、「親様の教えを守らせてもらって、泣く泣く辛抱しいしいに座っておりましら、ほしいものも、考えることも、いつの間にかなくなった」とおっしゃっている。

「泣く泣く辛抱しいしい」にお座りになられた‥だから、「いつの間にか」おかげをこうむられたとおっしゃっているのです。「どうしたら、おかげをこうむれるか」と言う人は多いが、「親様の教えを守らせてもらって、泣く泣く辛抱しいしいに座っておりましたら、いつの間にか‥」ここに最高の「答え」があるのです。

70年間という長い間、お結界にお座りになって、人々を取り次ぎ助けられた。教内外を問わず、このことは例がないと断じても過言ではないと思います。

このように、三代さまがご苦労くださり、その跡を四代さま、そして現金光さまが、教祖さまの御取次そのままに150年間続いている。そのなかで私たちが救い助けられていることをお礼申し上げたいと思います。

Posted by 教会長(三宅美智雄) at 18時52分   パーマリンク   コメント ( 0 )

2008年07月02日(Wed)

神、汝と倶にあり
[いのちの言葉]

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「無尽燈」表紙

もったいないことですが、松緑神道大和山(青森県にある宗教教団)から、毎月「無尽燈」という教団誌をご恵贈いただいております。

松緑神道大和山教団とは、初代教主・田澤康三郎先生、二代教主・田澤豊弘先生のお二方の先生にご教導をいただいて参り、現教主・田澤清喜先生とも親しくさせていただいております。青森のご本部にも、度々お参りをさせていただき、毎年のチャリティバザーにも参加させてもらっています。

その「無尽燈」に、教祖・大和松風さまの「大和山神諭」が連載されています。今月号の表題が「神、汝と倶(とも)にあり」という一文が掲載されています。

この「ご神諭」にふれて、とても感動いたしました。「天地書附」に、「生神金光大神 天地金乃神 一心二願 おかげは和賀心にあり 今月今日でたのめい」とありますが、「神、汝と倶にあり」を拝読いたし、直ぐに「天地書附」を想起いたしました。

神さまといえば、天上遠く高く在しまして、尊いお方というのが普通ですが、教祖・金光大神さまは「神人一如」といただかれ、「人を助けて神になれ」とも教えられています。

この「大和山ご神諭」にある「神、汝と倶にあり」とのお言葉に、私はお道の神さまと同様、常に私と一緒におられる神さまを感じ、何度も繰り返して拝読させていただきました。

私の師匠・泉尾教会初代親先生は「ご祈念していると、神さまのお膝の温もりが感じられる」と仰せられていたことを思い出します。師匠は神さまを身近にいただいておられたのです。常に「われ、神と倶にあり」というご信心であられたと思います。

「神さまと仲良うする信心をせよ」とも教えられているように、日々の生き方のなかに「身近に」そして、「神、われと倶にあり」ということを心がけていけば、きっと真実の生き方ができてきます。そうすれば、「神、汝と倶にあり」という信境に達することができます。そして「思うまま、言うまま、願うまま」のおかげをいただくことでき、無尽のご神徳に包まれる仕合せな生き方だができます。


Posted by 教会長(三宅美智雄) at 12時48分   パーマリンク   コメント ( 0 )

2008年07月01日(Tue)

一新願祭
[おひろまえ]

下半期の元日、午後1時30分より、お広前において若先生ご祭主のもと、「一新願祭」が仕えられた。祭典後、親先生からご教話をいただいた。この日、ル・ポン7月号が発行された。

Posted by 教会長(三宅美智雄) at 10時06分   パーマリンク   コメント ( 0 )

2008年06月30日(Mon)

「我」という生き方
[いのちの言葉]

画像(213x320)

「我」(が)があっては、おかげをこうむることができない。信心していても「我」が出てきては、せっかくいただいたおかげを落としてしまうことになる。

「ワシが、ワシが‥」という「我」があるうちは、理屈が先に立って、神さまにお願いするのが後回しになる。教祖さまの御理解にも、『祈れ薬れ、にすればおかげも早いが、薬れ祈れ、にするからおかげにならない』と教えられている。

ところが、この「我」の正体は? というと、「我」は正体不明、変幻自在なのである。人のことは言うまでもないが、自分の「我」は、どこにあるのか?ということが、なかなかつかめないのである。

「我」は、時には「一生懸命」という姿に変身していることがある。たとえば、一生懸命に掃除でもしみると、他の人が、まるで遊んでいるかのように思える。つい、言葉が荒くなってしまう。これが「我」の正体なのである。一生懸命という姿に変身している。

「熱心」という姿に変身していることもある。ほんとうは、熱心な人ほど、腰が低くなり、謙虚にならねばならぬのに、熱心な人ほど頑固になり、人を低く、軽く見たりする。それは「我」が、熱心というすがたに変身しているのである。

食事訓に「‥何を食うにも飲むにも、有り難くいただく心を忘れなよ」とあるが、「一杯食らわされた」(騙された)というが「何を食うにも‥」には、「一杯食らわされる」のも含んでいる。また「苦い汁を飲まされた」「煮え湯を飲まされた」など、だれでも、これまでにも体験したことがあるが、「何を飲むにも」には、そういうときに、それを「有り難くいただく心」を教えられているのである。

すなわち、一切を無条件で「はい」と、素直に受けきっていく姿が「我」のない生き方である。

教主金光さまの御取次をいただくと、われわれがどんなことをお願いしても、「はい、はい」とお受けくださる。簡単なことのように思うかもしれないが、一杯食らわされても、煮え湯を飲まされても、「はい」と受けるのは容易なことではない。

「我」があっては、絶対にできない。「我」が出ては、「はい」とは言えない。お互いに、日々「我」を捨てる稽古に取り組ませてもらいたい。


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Posted by 教会長(三宅美智雄) at 15時59分   パーマリンク   コメント ( 0 )

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